デヴィ夫人(デヴィ・スカルノ)は、
インドネシアの初代大統領スカルノの夫人として国際的な注目を集めましたが、
その華やかな表舞台の裏には、深い家族の悲しみが存在します。
特に、母・政子さんと弟の早すぎる死は、彼女の人生に大きな悲しみだったと思います。
今回は、そんなデヴィ夫人の母と弟について調べました。
デヴィ夫人とは

デヴィ夫人の結婚
デヴィ夫人(本名:根本七保子)は、1959年にインドネシアの首都ジャカルタへ渡航しました。
この渡航は、当時の日本とインドネシアの戦後賠償交渉の一環として行われたもので、
彼女は日本の商社・東日貿易の依頼により、スカルノ大統領との面会のために派遣されました。
その後、1962年にスカルノ大統領の第三夫人となり、インドネシア国籍を取得して
「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」と名乗るようになりました。
母・政子さんと弟・八曾男さんの死
母の死
デヴィ夫人は1959年にインドネシア渡航されました。
そしてデヴィ夫人がインドネシアに渡ってから2年後、母・政子さんは亡くなりました。
デヴィ夫人のお母さま、お綺麗ねえ! #ファミリーヒストリー pic.twitter.com/SD45dv84pn
— 佐久間真理子🌗 (@sakumariko) September 17, 2018
当時、デヴィ夫人に対する心ない報道が続き、お母様は心を病み、渡航から2年後に亡くなったそうです。
夫人自身も取材で「渡航直後の報道で母は心を病み亡くなった」と語っていました。
弟の死
また、弟はデヴィ夫人が母と弟のために貯めていたお金を騙し取られたことに悩んでいたとされています。

そして、精神的に追い詰められて自ら命を絶ちました。
夫人は、弟の死について「大統領の資産目当ての詐欺に騙されていた弟は自殺してしまった」と述べています。
弟の死後、デヴィ夫人はスハルト大統領から贈られた5.6ヘクタールの家を
「Wisma Yasoo(ヤソオ宮殿)」と命名し、弟の名を冠しました。
現在、その場所はサトリア・マンダラ軍事博物館となっています。
自殺は心痛む出来事ですが、スハルト大統領から贈られた家の名前に弟さんの名前をつけて、
八曾男さんのことを忘れずに思い続けることができますね。
母・政子さんとの思い出
デヴィ夫人は、戦時中の幼少期に母親と過ごした日々を鮮明に記憶していされています。
それは、戦時中のエピソードとして、空襲警報が鳴る中、母が弟を背負い、
自分の手を引いて逃げたことを思い出し、「母の強さと愛情を感じた」とのこと。
また、母が作ってくれた「鶏ガラのけんちん汁」は、彼女にとって忘れられない味だと語られています。
この料理は、貧しい時代に母が工夫して作ってくれたもので、家族の温かさを感じる一品。
NEWSポストセブン

母の死後も、彼女は母への感謝と愛情を忘れずに生きておられることと思います。
まとめ
デヴィ夫人は、家族への深い愛情と記憶を大切にしています。
母と弟の死は、彼女の人生に大きな影響を与えましたが、
その悲しみを乗り越え、現在も精力的に活動を続けられています。
これからのご活躍も期待したいと思います。
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